2024年12月

こんにちは
12月の今月の法語を掲出しました

熊木杏里「誕生日」の歌詞より

生きてきたようで
生かされている
そんな私であって
あなたである

誰も彼も、自分の力だけで生きてきたのではない
周りの人々や環境といった、自力の及ばないところの力、はからいによって生かされており、そうして毎年の誕生日を迎え、歳をとっていくのです

2024年11月

若院です。
今月の言葉は、『口伝鈔』より、「法師には、みつのもとどりあり。いわゆる勝他・利養・名聞、これなり。」です。

こちらは、親鸞聖人が法然上人の元にいた時のエピソードになります。
法然上人の元にいた出家者が、「故郷に帰りたいです」と法然上人に伝えたところ、法然上人が「出家者が髻(もとどり)を切らないで帰っていく、残念だ」と言います。
もとどりは髪の毛のことです。それを聞いたその出家者は「私が出家してもう何年も経ちます。なんでそんなことを言うんですか?」と聞き返します。
そこで法然上人は上記のみつのもとどりの言葉を言います。それから法然上人は3つのもとどりとは、次のようなものであると言いました。
勝他:法然上人の元で学んだ知識で故郷の人を見下そうとしていないか?
名聞:法然上人の元で学んだ知識がいっぱいあるからすごい人だと思われたいと思ってないか?
利養:上記の勝他、名聞を元に寄付をいっぱいもらって豊かになろうとしていないか?
これを聞いた念仏者は、思い当たることがあったらしく深く反省し、これまで勉強して書き記してきた書物を全て焼き捨てた上で、改めて故郷に帰りました。
最近読んだエピソードで、曇鸞大師も菩提流支に指摘されて仙経を焼き捨てていました。ハッとさせられると書物焼きがちです。

上記の3つのもとどり、私にも思い当たることがいっぱいあります。
会社で働いていた時は、むしろ3つのもとどりは競争力を高めるために推奨されているように感じていて、上司にもよく「同期よりも上に行きたくないのか?」や「周りの人間をすごいと思わせたくないか?」とよく言われましたし、私自身そんなに悪いことだと思っていませんでした。
ただ、仏法の世界では違うようです。勉強してる時はこのエピソードを聞いて「確かに、仏法の世界では3つのもとどりは捨てないといけないんですね!」と頷いてましたが、いざ会社時代の友人などに会うときには、「勉強したことうまいこと話しておおーと思わせたいな〜」と考えてしまいます。世間の延長線から全然抜け出せませんね。
このエピソードを心に留めて、生活の中で勝他・利養・名聞に自分が陥ってることにちゃんと気づけるようにしたいなと思っています。

2024年10月

こんにちは
投稿が遅くなりましたが、10/9.10に今年の報恩講も無事勤まりました
誠にありがとうございます

また、掲示板の法語も……月初には掲出しておりましたが、何かとバタバタしているうちに投稿しそびれてしまいました💦

この秋は長男が喘息で入院したり、自分自身も体調を崩したりと、なかなか忙しなくすごしており、まさに生活の合間に手を合わせる日々でした
お念仏という基盤の上に営む生活が大切、と掲出した矢先にこのてちたらく……精進いたします……

2024年9月

こんにちは
9月になりましたので掲示板の「今月の言葉」を更新しました

この世に生まれること、老いていくこと、病に罹りうること、そして最後には死んでしまうことは、どんな人間にも必ず訪れる「苦しみ」です
そして、その「苦しみ」を抱えて生きていかないといけない、ということのみが私たちの平等なのです

真城義麿先生は「人間は、みな等しく弱い」とおっしゃいました
そして、「共に支え合い、共感して生きるのが人間」とも
平等とは程遠いこの社会の中、皆同じ苦しみを抱える不完全な身であるからこそ、私たち人間は他者に共感し、慮ることができるのかもしれません

2024年8月

今月の言葉は、『歎異抄』後序より
「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」です。

この言葉は、阿弥陀如来の本願は、ただ自分一人を救うためにあったのだという親鸞聖人の感慨を表した言葉です。親鸞聖人は誰よりも煩悩具足の凡夫(煩悩をなくすことができない存在)であるという自覚をもっていました。そんな自分でさえも救われるのであれば、阿弥陀如来の救いは世界のあらゆる人に届くことが証明されたという喜びをこの言葉で表しています。

親鸞聖人は阿弥陀如来の救いは私たちも救ってくれることを明らかにしてくださいましたが、私たちはそのことを自覚できているのでしょうか?阿弥陀如来の本願は自分のためだと思えているのでしょうか?この文を書いている私自身、南無阿弥陀仏を唱える理由を自分以外に置きがちです。家が寺だから、伝統だから、そういった理由で手を合わせているときがあります。南無阿弥陀仏を本当に自分のためと思えた時に、阿弥陀如来の救い感謝できるのかもしれません。by 若院

2024年7月

こんにちは
遅くなりましたが、掲示板の今月の言葉を更新しました
金子みすゞの有名な詩「わたしと小鳥とすずと」の最後の一節です

私がこの詩を知ったのは小学生の時でした
最後まで読み終わったあと、なんて気持ちの良い詩なのだろうと思ったことをよく覚えています
わたしと小鳥とすず、それぞれ出来ることと出来ないことを比較して並べ、そして出来ないことも含めて「みんないい」と締めくくる
違いを認めたうえで、その全てを肯定する力強い言葉は、幼い私の心を強く打ちました

当時は仏教なんて何も知らない自分でしたが、いま改めて読むと「みんなちがって、みんないい」という精神は、お浄土のすがたを表しているのでは、と感じます

私達人間はどうしても自分と他人を比べがちです
どこが優れているとか劣っているとかを決めつけて、勝手に安心したり嫉妬したりもします
しかし、そういうふうに人同士を比較して得られる輝きは真の光なのでしょうか?

『仏説阿弥陀経』には浄土に咲く花の色を表した「青色青光 黄色黄光 赤色赤光 白色白光」という節があります
それぞれの色がそれぞれの色のまま光り輝いている
他と比べて優れているとか劣っているとかではない、ありのままの姿のままが認められる世界
まさに「みんなちがって、みんないい」を体現した世界
それこそが、私たちが目指すべき価値観なのではないでしょうか

2024年6月

こんにちは
6月になりましたので掲示板の今月の言葉を更新しました。

人間関係のちょっとした諍いから国際的な戦争まで。現実の「争い」はいつだって、自分が正しいと思っているもの同士で起こります。物語に描かれるような分かりやすい善悪はそこにはありません。
世にあふれる争いの原因は、「わたしが善だ」という強い思い、執着です。
そういった執着心からどうやって離れようかということが仏教の課題であり、我々が人生を通して考えていかねばならないことなのです。

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先月までの伝導掲示板は坊守が書いていましたが、今回は私、若坊守が担当しました。
久しぶりに筆で文字を書いてみて、下手だなあ、と恥ずかしい気持ちが……
でもそれって、裏に「もっとうまく書けるはず」とか「上手に思われたい」とかいう気持ちがあるということなんですよね。
ありのままの実力を受け止めて、読みやすい文字が書けるようこれから精進します

2024年5月

こんにちは
5月になりましたので、掲示板の今月の言葉を更新しました
星野富弘さんの詩「今日という日」です

星野さんは20代の時に事故で両手足の自由を失い、
そこから、口に筆をくわえて詩と絵を描く「詩画」という創作を始められました

昨夜、星野さんの訃報が報道されましたが、
実はその日の昼間に、5月の掲示板の言葉は星野さんの詩にしようか
と家族で話していたところだったので
その偶然に大変驚きました

繊細ながらも力強い筆致と、
生きるということを素朴に真っ直ぐ表した詩からは、
星野さんの持っていた「生きる力」が表れているように思います

ぜひ詩集などでイラストと併せて読んでいただきたいです

2024年3月

年が明けて早2ヶ月
様々な状況のなか、一生懸命に疲れてしまうときあるでしょう
気遣ってくれる人に心配をかけたくないと思うこともあるでしょう
しかし、無理に気丈に振る舞う必要はありません
ありのままのあなたが生きる大切な一日
明日も明後日も生活を続けられるように
「ぼちぼち」でいきましょうね